装飾あれこれ

西洋建築の長い歴史と比べるなら、現代建築には基本的に装飾と呼べるものがほとんどない。
そして、僕は装飾のない建築が結構好きである。
でも、日本建築や西洋建築の歴史を俯瞰すると、遊び心であっても、真剣な信仰心であっても「思い」みたいなものは、装飾に込められたものが見ていて分かりやすい。
もちろん、「思い」は建築自体にも込められているだろう。
しかし、高尚でお堅いように思うのは、建築に関係しているもののエゴなんだろうか?
日本建築の意匠である蟇股とか木鼻をみていると、微笑ましくかわいらしいものが多い。
滑稽ですらある。妙な情熱すら感じる。
その変遷をたどるのも、また、楽しい。
西洋建築でも、フレスコ画や彫刻で示された聖書の1シーンは胸を打つ。
そして、同じ題材をどのように解釈し表現しているか見比べてみると、フレスコ、彫刻ともに具体的でわかりやすい。だから、見ていて楽しい。
それに対して、現代建築にそのような楽しみはないに等しい。
建築にはエロいものを表現できないという。
人をエロい気持にさせることができないという意味だ。
彫刻や映画はもとより、絵画や小説にしても、目的をそれに絞ればそれなりにエロを達成することができるだろう。
しかし、建築にはエロい表現は不可能で、それは音楽にとっても同様である。
そういった話を前置きに、ある研究者が音楽と建築は抽象芸術という点で、また、上品であるという点で似ていると表現していた。
ものは言いようである。
だが、言われてみればそうだなと思う。
そして、それはつまり、純粋な建築空間ってのはわかりにくいということである。
飾りの失われた建築は後世から見ればつまんないものかもしれない。
主題も純粋な建築を指向するあまり、建築という枠に捕らわれすぎていて、少ないように思う。
だからといって、建築がメディアと融合して新しい装飾を生みだせばいいとか言ってるわけではない。
ただ単に、時代を判別したり、純粋にみて楽しんだりできる付属品が、今の建築にないのはどうなんだろとおもっただけ。
総合芸術という響きに憧憬を抱いただけ。
なにかしら代わりのものがあるはずだから。
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